朝9時。 始業ベルが鳴り、パソコンを起動させる。何時もと同じ朝、何時もと同じ日常─────── 起動するまでの僅かな時間を惜しむように、ズキズキと拍動痛を訴えるこめかみを押さえる。 パソコンの起動音が小さく耳を打つのとほぼ同時に 『彼』の直属の上司から声が掛かった。 「ぁ〜‥君、君の業務用携帯電話の番号は何番だったかな?」 「僕は仕事もプライベートも携帯は持ちません。今の処、必要ありませんから」 「そうは云っても、ねぇ 君は外廻りも多いから‥‥」 独り言か否か、判断の付き兼ねる科白(ことば)を ぶつぶつと呟いたかと思うと、徐に抽斗から取り出した 黒い小さな それ─────── 「はい、これ」 「‥‥‥え?」 取り出されたのは、件の携帯電話。 「社からの支給品。この時期は忙しいから留守電はマメに聴くように。何時、何が起こるか判らないからな 費用は全部会社持ちだから、心配ない。が、プライベートでの使用は程々にな‥‥まぁ君に限ってそれは大丈夫か 今迄、無くても生活出来てた人だから」 ─────まるでひと仕事終えたような満足気な面持ちで、全面禁煙オフィスで 悠々と煙草に火を点けた。 『禁煙』とも、ましてや『携帯電話は必要ない』とも云えず、彼は途方に暮れた表情(かお)で 掌中の携帯電話を無言で見つめた。 ─────────頭、が‥‥ 痛い 「ホント?漸く携帯持ったんだ。良かった!これで待ち合わせも楽になるね」 「今迄だってそれ程不自由してた訳じゃないけど」 「え〜っ!?ずっと不自由してたわよ、あたしは。これで思いっきり遅刻が出来る!」 「何云ってんだよ。今迄だって充分、遅刻してたじゃないか」 「そうだったっけ?」 きゃらきゃら、と電話越しに聴こえてくる ソプラノの声音(こえ)。 彼女とは学生時代から併せると約6年の付き合いになる。当時と変わることのない元気の良さは、美点であると同時に 欠点でもある、と 彼は思う。場所を弁(わきまえ)ない その無駄だと思える迄のハイテンションは、正直 疲れている時には聴きたくない、と感じてしまう。 決して愛情が薄れたとは思わないが、ある意味『惰性』というのを否めないのも、また事実。 ─────────頭、が‥‥ 痛い そしてまた、朝が始まる。好むと好まざるとに関わらず。 鬱陶しい程に 込み合った通勤電車には未だ慣れず、一生慣れることなんてないんだろうな と 半ば考えること自体を放棄するように、彼は小さく溜息を付く。 ─────────溜息と共に幸せは逃げてゆく 等と、云っていたのは‥‥誰だっただろうか。 不意に支給されて間もない 携帯電話が犇(ひし)めき合う車内に鳴り響く。普段使い慣れないせいか、マナーモード等と 云う言葉に縁が無く、また、憶えようという意思すら彼には無かった。 周囲の刺す様な冷たい視線を感じながら、決して小さくはない その身を縮め、そっと電話を耳に当てる。 直前に見た液晶表示は─────非通知。 「‥‥はい」 「アンタねぇ、借りたものは返すのが人間ってもんだろ?」 電話の向こうから聴こえてくるのは、ドスを効かせた、聴き憶えのない 声。 「‥‥どちら様 ですか ?」 「どちら様、だぁ!?恍(とぼ)けるな!!‥‥そうか、そっちがその気なら出るとこ出てもいいんだぞ」 「あの‥‥番号をお間違えですが」 「やかましいっ!」 ガシャ と、派手な音を立て電話は切れた。話す内容も態度も‥‥そして、切れ方も全て一方的に。 「何だよ、一体‥」 ─────────頭、が‥‥ 痛い キリキリと相変わらず痛みを訴えてくるこめかみを押さえ、出社するなり彼は、自らの机に突っ伏した。 塵1つ無く、整然と片付けられた机だが 「君、昨夜はどうした」 車内での電話の相手同様、一方的で身勝手───だと、彼が思っている、彼の上司が伏せた背中に声を投げ掛ける。 「?何のことですか?」 「留守電だよ、留守電!」 朝から無駄に元気な人だな、と思う。きっと高血圧なんだろう、とも。 「いいえ、何も」 「おかしいなぁ‥‥着歴 確認してくれる?」 「『ちゃくれき』?」 「だから、け・い・た・い !!」 「『留守電』って携帯のことだったんですか」 「何、当たり前のこと云ってるんだ?‥ったく、これだから使えないヤツは厭なんだ」 「‥‥‥」 使えないのは、どっちだか。 一方的で身勝手、と云う形容詞に『歩く騒音』を付け加えよう、とその胸中でひっそりと呟いた。 ピピピピピピ────! 予告も無しに、やって来る、それ────携帯電話の着信音。『着メロ』と呼ばれるモノのように柔らかな音色もなく、 無粋なこと甚だしい、と感じる人間は、自分だけではない筈と彼はこっそり思っている。 「お忙しい処っ、恐れ入りますぅ」 あからさまな媚を含んだ、『彼女』とは違う 耳障りな高音は、訳もなく彼の神経を逆立てる。 「どちら様ですか」 不機嫌露わな声で応対する。セールスなのは第一声で判ったので、丁寧に応じる必要もないだろうと判断して。 「あら、思ったよりお若い声でいらっしゃるんですね。わたくし、○○生命の者でございますぅ。お忙しいかとは存じますが、 是非お話を聞いて戴きたくてお電話差し上げました。‥‥ぁ、決してセールスではございませんから!」 セールス特有の早口の高音、と云うのは何故是程までに神経を逆撫でするのだろうか。 「必要ないので結構です」 「そんな冷たい事をおっしゃらずに1、2分だけでも、お話さ」 ブツリ、と。 一方的に電話を切る。我ながら非常識だとは思ったが、この際仕方ないことだと割り切ろうと決意する──が。 切った後ですら耳に残る あの、不快感を そうそう拭えるものではなかったのだが‥──── 「だから、何なんだっ!」 ピピピピピピ────! 間髪入れず、ワンルームマンションに鳴り響く携帯電話の着信音。 相変わらず 痛む、こめかみを押さえ、彼は 「‥‥はい」 「あ、あたし。もう帰ってた?」 聴こえてくる声に彼は大きく溜息を付いた。正直な処、疲れている今 一番聴きたくない声の持ち主 と云っても過言ではない─────無駄に元気な『彼女』の声。 「ああ‥‥何か 用?」 「別に用はないんだけど‥‥何となく」 えへへっ、と向こうから洩れてくる笑い声が、更に彼の不快を誘う。自然と返す声が低くなり、無愛想になる。 「『何となく』で電話するんだ‥‥」 しかし、その彼の回答(こたえ)が気に入らないらしく、彼女もまた声を荒げる。 「用がないと、掛けちゃいけない訳?‥‥あ〜っ そう!じゃあねっ!!」 ガチャリ 投げ付ける、と云う表現がぴったりの騒音でもって 「だから、携帯は嫌いなんだ‥‥皆、自分勝手ばっかりだ」 ─────────頭、が‥‥ 痛い 止まらない頭痛と、寿命を縮めるような通勤電車との戦いを潜り抜け、漸く出社した先────会社は、果たして その甲斐があるものなのだろうか、と彼は自身にそっと訊う。 「だーかーらーっ!こまめに留守電聴けと云ったろう!!何故連絡を寄越さないっ!?」 「‥‥済みません」 どうして自分の廻りには無駄に元気な人間ばかりなのだろう 人間とは何て身勝手な生き物なのだろう 上司の云う『留守電』も、仕事の話などでは全くなく、自分のプライベート丸出しの内容。 しかも『気が向いた時にでも連絡してくれれば』と云っていたので連絡はしなかった────気が向かなかったからである。 それをこうも激怒する位なら、最初から『折り返し連絡』にしておけばいいものを。 「うちの会社は君を遊ばせておく余裕なんてないんだ」 ────と、大昔のドラマのような科白を吐く上司を彼は褪めた瞳で眺める。文句を云ったことで気が晴れたのか、 彼の上司はそれ以上何も云わず────何となく居心地が悪いな、と思った途端、タイミング良く 携帯が鳴った。 ちょっと失礼します、と自分の席に着き 電話に出る。 「‥‥返す気になったか」 聴き憶えのあるドスを効かせた、その声の主は────先日の間違い電話。 「だからそれは間違いだって云ってるじゃないですか。 僕じゃない」 「ほぉ〜‥まだそんな事云う余裕があるのか‥‥いい加減にしろっ !」 「そっちこそ、いい加減にしろっ!」 投げ捨てるように 「おい、何だ 今のは」 「間違い電話です」 彼がにべも無く云い放つと、彼の上司は何か云いたげな顔で彼を睨み付けた。 「お忙しい処、恐れ入りますぅ」 「‥‥また ですか」 「わたくし、○○生命の者です。お忙しいかとは存じますが、是非お話を聞いて戴きたく、お電話差し上げました」 「この間も云いましたが、必要ないから結構です」 「そんな冷たい事をおっしゃらずに1、2分だけでも、お話させ」 ブツッ。 前回同様、話の途中で容赦なく 通話を切った。‥────途端 ピピピピピ────! 今朝は何て電話の多い日なんだろうか。しかもマトモな電話は1つもない。今日という日が始まってまだ間もないと云うのに 彼は─────彼の精神は無駄に疲弊し切っていた。溜息を付くことすら面倒だ、と感じる程に。 奇妙な程、重たく感じる腕をゆっくりと持ち上げ、ボタンを押す。流れてきた、のは─────‥‥ 「ごめん、仕事中。あたし、どうしてもこの間のこと‥‥謝りたくて」 「いいよ、もう‥‥続きは夜な」 「え?今いいでしょ?ちょっとだけだから。‥‥ねっ?」 「悪いけど、仕事中だから」 「ね?ちょっとだけだから。お願い」 押し付けがましい ハイテンション 人の話を聴かない 間違い電話 必要以上に媚びた 喋り 一方的で自分勝手な 目の前の男 「おい!私用は控えろと云っただろう!」 頭、が‥‥痛い 頭、ガ‥‥痛イ アタマ、ガ‥‥痛イ アタマ、ガ‥‥ 「いい加減にしてくれー!」 元はと云えば、全部コイツのせい、だ こんなっ‥‥ ‥‥あぁ そう、か 薄暗い、区切られた部屋の中。月明かりが差し込む窓には鉄格子。 『彼』は膝を抱え、硬いベッドの上に座っている。虚ろな瞳(め)で一点を見つめ、ぶつぶつ と、独り呟く。 ─────‥それ、は 「只今、電話に出ラレマセン ゴ用ノ方ハ‥‥」 嫌悪していた、携帯電話の留守電のガイダンスと同じ───────
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