見えすぎる目にうつるのは……。









     鎮魂歌










    昏い、躰に絡みつくような闇の中を、全力で走る夢を見た。どこまで駆けても、重たい闇からは逃れられなかった。

    漆黒かと思ったけれど。
    微妙な色合いが、黒とは違う。

    地を踏みしめる足が、何かに引っ張られるような感触を得た。それが訝しく、ふと足元を見やれば、あやめもわかぬ闇の中だというのに、奇妙な鮮やかさで緋色が目に飛び込んでくる。

    どろりと足元に絡みつくそれは、鉄錆の匂いがした。
    血なのだ、と思う。誰かが流した赤い血が、自分のに纏わりついているのだと。

    躰を押し包む闇もまた、赤い色を含んでいる。ああ、乾きかけた血の色だと、そんなことを思った。



    潮の香りを含んだ風が、海辺に佇む少女の髪の毛を優しく撫でて通り過ぎる。陽光を受けて、見事な金色が煌いた。その傍には、誰の姿も無い。

    底知れぬ蒼の双眸に、白皙の肌。
    整った顔には、仄かな笑みが浮かんでいる。

    打ち寄せる波が、少女の白い足を洗った。その冷たさが心地良いのか、彼女は浮かべた笑みを益々深くする。そして、優雅な挙措で膝を折ると、ほっそりとした指を水に浸した。

    「ひとつとや、打ち寄せる波にあなたを思う」

    小さく、波の音に紛れるほどの声で、少女は歌った。

    「ふたつとや、引きゆく波にあなたを思う」

    白いスカートを、海の水が濡らした。しかし、彼女はそれに頓着することなく、打ち寄せる波を見る。
    吹き寄せる風は、濡れた服を乾かすほどの強さも熱さも持っていない。ただ、優しく、波打ち際に膝を付いている少女の髪を揺らすだけだった。

    「みっつとや、荒れる波間にあなたを思う」

    ぱっ、と水に浸していた手を跳ね上げた。きらきらと、水滴が宙に舞って煌く。

    「よっつとや、凪いだ水面にあなたを思う」

    ふつりと、歌声が途切れた。そして、先ほどまで浮かんでいた笑みも、拭い去ったように消える。代わって立ち現れたのは、見る者の心を抉るような悲哀の表情だった。

    歌おうと、嘆こうと、何も戻って来はしない。あの忌まわしい夢からも、逃れられはしない。
    ……何故なら、手折ってきた命は両の手に足りないほどの数だから。どれだけ思おうと、死者の恨みはこの躰から離れる筈も無いのだから。

    救えるはずだった命。
    奪ってしまった命。

    この白い手に、少女は赤く黒く絡みつく血を見る。それが持つ鉄錆の匂いは、どれだけ強い香水を自分の身にふりかけようと、決して消えることは無い。

    いっそ、死んでしまえば楽になるのか。行き着く先は、無明の闇だろうけれど、胸を押しつぶすような哀しみや後悔から逃れられるのなら、それも悪くはない。

    「弱くなってしまったわ……」

    戦いが終って、目的を見失った所為だ。己が信じる正義のために戦っていたときは、どんなに辛くとも命を絶とうとは思わなかった。それに、傍には彼女を支えてくれる仲間が居た。

    可愛らしいが、強いESP能力と天才的な頭脳を持つ赤ん坊。
    自由に空を翔け、陽気な中にも哀しみを持った少年。
    冷徹で、冷酷でありながら、案外と情に厚い青年。
    寡黙で、巌のような躰を持った、優しい青年。
    エネルギッシュで、底抜けに明るい男。
    人生経験が豊富で、時に鋭く真実を突く男。
    理知的で、一番精神のバランスが取れている青年。
    弱さや優しさ、そして驚嘆すべき強さを持った少年。

    八人の、自分と同じ境遇の仲間たち。敵を同じくし、命を預け、預けられて戦ってきた。その過程で奪った命の重さに、きっと彼らも苦しんだろう。
    人知れず泣くようなことが、もしかすれば、あったのではなかろうか。
    人なのだ、自分たちは。いかに憎い敵とは言え、命を手折ったことに苦しまない筈が無い。

    赦してくれとは、言わない。
    赦されるはずなど、無いのだから。
    手折った命の持ち主たちは、紛うことなく少女の敵だった。彼らが、自分や仲間たちを赦すことなどありえない。

    砂を踏む音が聞こえた。誰かが少女に近付いて来るのだ。

    「……濡れるぞ」
    「もう濡れているわ」

    背後からかけられたのは、低く透りのよい声。聞き慣れた仲間の声だった。
    強い手が、少女の肩に触れる。ちらりと視線を上げれば、憮然とした表情の青年が傍に居た。銀色の髪に薄い青の目が、酷薄そうな印象を与える男が。

    「冷えるぞ」
    「心配性ね」

     促されて、立ち上がる。彼とは、長い間一緒に居た。第一世代と言われた、特別な仲間。

    「この頃、君の様子がおかしいから、心配していた」
    「あら、それは悪いことをしたわね。でも、そんなにわかりやすかった?」
    「いいや、そうでもないよ。君は巧く隠していたほうだと思うね」

    実際、気付いていない仲間のほうが多い、と青年は笑う。明るいとは言えない表情だったが、それは紛れもなく笑みだった。

    彼にはわかっているのだろう。何故、少女が海を眺めているのか。

    「ねぇ、いつから見ていたの?」
    「いつから、といえば?」
    「意地悪ね。わたしが此処で何をしていたか、どれくらい知っているの?」

    勁い眸で見据えられ、青年は言葉につまった。

    この眼差しは、見る者を惹き付け、同時にひやりと冷たい手で胸の奥を撫でられるような心持ちにさせられることもある。
    その原因が、少女の眸の底知れぬ蒼の所為なのか、それとももっと別のものなのか、青年には区別がつかないのだが。

    「……ずっと、こうして海に来ていたのかい?」

    青年の問いに、ひょいと軽く少女は肩を竦める。

    「海が好きなのよ。せっかく全てが終わったのだから、戦いの場でない海を見ていたかった」

    その言葉に嘘の響きは無い。ただ、それが答えの全てでないことは、察せられる。少女はほんの一欠けらほどしか、真実を話していない。
    だが、問い詰めても、決して彼女は答えないだろう。長い付き合いの間柄でも、開かれない扉というものは存在する。

    「……まだ何か訊きたそうな顔をしているわね、ハインリヒ」

    目線の位置が違うため、必然的に少女は青年を見上げる形になる。上目遣いの表情が、幼い。
    しばし、二人の視線が絡み合った。それを断ち切ったのは、氷の双眸ではなく、深い蒼の双眸。

    「夢を見るの。逃げる夢。絡みつく何かを振り切って、ただ駆ける」
    「いやに憔悴していると思っていた。眠れていないんだな、フランソワーズ」
    「確かに、気持ちよく眠って目覚めて、という感じではないわね」

    肩を落とすようにして、深く息を吐く少女。

    「厭な夢よ……。遠ざかったかと思えば、やってくる。その度に、胸が冷えるわ」

    スカートからのびる、すんなりとした脚が軽く跳ね上げられる。寄せてきた波が、幾つかの飛沫になって宙に舞った。
    陽光を弾いて煌くそれを見つめる少女の横顔は、ぴんと張り詰めていた。

    「昏いところなの。でも、忌まわしい色がはっきりと見える。嗅ぎなれた匂いがする」

    何度も、少女は打ち寄せる波を蹴り上げた。そのたびに、冷たい飛沫が彼女の服や脚、そして腕や顔を濡らした。隣に立つ青年にもまた、それは降りかかる。
    止めろ、とは言わなかった。やりたいようにさせておこう、話したいなら話させよう、と決めている。

    「だから、歌うの」

    海を眺めながら。

    「夢を見たときは、歌いに来るの」

    煌く波間に沈んだ骸を見ながら。

    「鎮魂の歌を、歌うのよ……」

    佇む二人の髪の毛を、吹きすぎる風が優しく撫でた。

    ――ひとつとや、打ち寄せる波にあなたを思う。
    ――ふたつとや、引きゆく波にあなたを思う。
    ――みっつとや、荒れる波間にあなたを思う。
    ――よっつとや、凪いだ水面にあなたを思う。

    細く、それでいてよく透る声で少女が歌った。聞き覚えの無い旋律と、詞だった。

    ――いつつとや、沈む船にあなたを思う。
    ――むっつとや、暗き水底にあなたを思う。
    ――ななつとや、吹く潮風にあなたを思う。
    ――やっつとや、煌くしぶきにあなたを思う。

    あなた、とは誰なのだろうと思ったが、それを今訊ねるほど、彼は無粋でも莫迦でもない。

    ――血潮に染まる、蒼き海。
    ――赤く染まる波間には。

    ふつりと、声が途切れた。

    「フランソワーズ……?」

    白い頬を、一筋、涙がつたった。その一瞬、少女がひどく儚く見えて、青年は息を呑んだ。
    消えてしまう、と根拠など何も無いのにそう思った。ひやりと背筋を氷の手で撫で上げられたような恐怖に突き動かされ、少女を懐深く抱き締める。

    「ハインリヒ、どうしたの」

    綺麗に感情が抜け落ちた声で、少女が言う。抗うでもなく、抱き返すでもなく、ただ彼女は重さを青年に預けているだけだった。
    自分とは違うぬくもりが、もしかすれば幻なのではないかと思えて、抱き締める腕に力を込める。流石に苦しかったのか、小さく少女が身じろいだ。

    「ね、どうしたのよ?」

    ほっそりとした腕が、青年の背に回される。抱き返すというには弱い力だったが、少女の存在を確かに示すものとしては充分だった。

    「すまない……。君が、消えてしまうような気がした」
    「おかしなことを言うわね。わたしはエスパではないわ」

    くつりと、腕の中で笑う気配。
    息を呑むほどに整った顔が、見上げてくる。

    「どうやって消えるというの。わたしは此処に居るのよ」

    深い色をした少女の目を覗き込んだが、そこには何の感慨も無い。流した筈の涙の名残すら、蒼い眸には無かった。
    ただ、凪ぎの海にも似た虚ろな穏やかさだけがあり、ぞっとするほど綺麗だった。
    「心配しないで……。何処へも行かないわ」

    青年の腕から抜け出し、再び海のほうへと向き直る。
    何が見えているのか、彼にはわからない。それを知りたいと思ったとき、少女が考えを読んだかのように言葉を紡ぎだした。

    「わたしにはね、見えてしまうのよ。色々と、哀しいものがね……」
    「海の底に沈んだもの、ということか」
    「それもある。でも、もっと儚いものも見えるような気がする」
    「……どういうことだ」

    白々と整った横顔は、動かない。凪いだ海の色をした双眸が、陽光を弾いて煌く。

    沈黙が、落ちた。
    打ち寄せる波の音だけが、響く。

    「莫迦なことだと、あなたは言うわ。それとも、わたしの目がおかしくなったと言うかしら」
    「君らしくないな、お嬢さん。言いたくないのなら、言わなくとも構わないがな……」

    口角を吊り上げるようにして、青年は笑ってみせた。少女の視線が微かに動き、彼の笑みをその視界におさめたのがわかった。
    ふ、と凍り付いていた彼女の顔が和らぐ。そして、深い溜息を吐いてぽつりと呟く。

    「死者が見えるのよ。白い顔をして、血を流した死者がね」

    返す言葉を、青年は見つけられなかった。

    「莫迦ばかしいと思うでしょう。笑ってくれていいわ。わたしだっておかしいと思うんだから」

    でも、と彼女は顔を伏せる。

    「見えるのよ。逃げる夢を見た朝には、特にね……。沈んだ死者が、見える」

    海が呑み込んだ、幾多の骸。魂の欠片。そして、悲哀、怨嗟、憎悪……。手折られた命の持ち主が残した、負の情念。
    安らぐことなど無い、哀れで忌まわしいそれらが見えるのだと、彼女は言う。

    「笑う? ハインリヒ。それとも、わたしが壊れたと思うかしら」
    「そんなことはしない。君は大切な仲間だ。笑うわけがないだろう」
    「そう……。仲間……が居るのよね……」

    寄せる波が、足を濡らした。引く波が、海へと誘った。

    「呼ばないで……」
    「え……ッ?」
    「誘わないで……。お願いよ」
    「なにを……?」

    言っている、と続けようとしたとき、くたりと、少女の躰から力が抜ける。それを抱きとめ、血の気の退いた顔に驚いた。常の冷静さなど何処へやら、甲走った声が喉から迸る。

    「フランソワーズ! おい、しっかりしろ!」

    青年を見ているはずなのに、その視線は彼の顔を突き抜けて遠いところに焦点を結んでいる。
    ぞくりと背筋が冷たくなって、思わず背後を振り返っていた。そこに何かが居るのではないかと、埒も無いことを思ったのだ。

    細い声が、虚ろな旋律と詞を紡ぎだす。

    「ここのつとや、血塗れた海にあなたを思う」
    「フランソワーズ!」
    「とおとや……」
    「何も居ない! おれを見ろ!」

    怒鳴って、その頬を張った。小気味よい音が海辺に響き、はっと少女が息を呑んだ。

    「ハインリヒ……?」
    「何が、ハインリヒ、だ! 莫迦やろう!」
    「何故、怒るのよ……?」
    「何処にも行かないと言ったろう!」

    会話がかみ合わなかった。ゆっくりと少女が瞬きをして、思い出したように頬に手をあてる。殴られた痛みを、今になって感じ始めたのだろう。
    はらりと蒼い眸から、涙が流れた。静かに、ひたすら静かに、少女は泣く。

    か細い躰を、青年は抱き締める。君の在るべき場は此処だと、無言で叫んだ。
    少女が何を見て、何を聞いたのかわからない。ただ自明なのは、彼女を死者になど、海になど、渡せないということだ。

    「苦しいの」
    「哀しいの」
    「だからね」
    「歌うのよ……」

    手折った命を、死者を、忘れないと。命が続く限り、血に塗れた自分を覚えておくと。

    「そうして伝えればね……」
    「いつか、赦されると思った」
    「そんな筈は無いのに……」
    「莫迦な奴だと思うでしょう」

    鎮魂歌のつもりなのだと、彼女は嗤う。自己満足に過ぎないことはわかっていると、嗤う。

    「フランソワーズ……」
    「毀れているの、わたしは」

    嘆く少女に、今は何も言ってやれない。こんなときに言葉は、何の力も持たないのだとわかっているからだ。

    ただ、しっかりと抱き締める。
    全霊を懸けて、此処に居てくれと願いながら。
    波が打ち寄せ、引く。
    潮の香りを含んだ風が、吹く。

    ――ひとつとや……。

    赦してくれと願う歌。

    ――あなたを思う……。

    安らいでくれと願う歌。

    とろりと凪いだ海は、どこまでも蒼く、哀しい色をしている。
    骸を、怨嗟を、悲哀を、憎悪を……鎮魂の歌を呑み込んで、どこまでも蒼かった。











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