コロンの代わりにバニラエッセンス

         ワインの代わりにアールグレイ


         わたしにしてはかなりの譲歩、なんだから



         ─────────今夜こそ 覚悟して、よ?










         甘い罠










         時折、雲間から射す月光 が 彼女の横顔を ほの明るく照らし出す。
         フランソワーズ、は グラスに残っていた液体を飲み干すと グラスに移ったルージュを
         親指の腹で 拭い、静かにテーブルに 置いた。




         半渇きのままの髪
         風呂上りの微かに上気した頬
         長い睫毛に縁取られた瞳




         贔屓目に見なくとも『綺麗』の部類だ、と その横顔を物陰から盗み見ながらジェットは 思う。

         「‥‥で、そこで何してるの?ジェット」
         「おぅ 茶ァでもしばこうかと思ってな」
         「‥‥こんな 時間、に?」
         「そっちこそ珍しいんじゃねぇ? ────寝酒、なんざ」







         時刻は やがて翌日になろうとする 頃。
         暑くもなく 寒くも なく────過ごし易い季節、は こんな時間にあって タンクトップに
         ショートパンツ、という格好(いでたち)でも 快適に過ごす事が出来た。




         「寝酒じゃなくて『景気付け』、よ」
         「景気付け?何の?」
         「ジョーに 夜這い掛けようかと思って」



               ──────────は?


               夜這い、って───────


                  アレ、か?



                    あの、夜這い のコト かぁぁっ!?










         「‥‥すっげ〜不遜な科白が聴こえたんですけどー?」
         「改めて云われると 照れるわ」
         「‥‥‥‥誰だよ お前」
         ジェットは がしがし、と頭を掻いたかと思いきや フランソワーズに向けて1歩踏み出す。
         「 な に?」
         フランソワーズは何となく1歩下がる。


         ジェットが踏み出す分 だけ、フランソワーズが 下がる。
         縮まらぬ もどかしい 距離───────




         「‥‥何で下がる?」
         「迫ってくるから」




         「「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」」




         至極、妥当な解答を寄越された とて ジェットが押し黙る─────筈など無く。
         口許 に 人の悪い笑みを浮かべ、フランソワーズを追い詰める。
         華奢な彼女の躯を 挟み込む よう に、流しに手を着き、身動き出来ないよう に した。




         「あーんな総天然色よか オレにしとかねぇ?」




         オレのほうがお買い得だぜ?と、囁くように顔を近付ける、と────刹那、その動きを止める。

         「あ‥‥? 美味そうな匂いがする」

         くんくん と鼻を鳴らしながら さり気なくフランソワーズの紅唇に、自分のそれ、を 寄せ



         「やぁーっぱ、喰っちまおうかな〜」



         等と、熱く息を吹きかけなが ら───────なのだ、が。
         ジェットの野望は 果たせぬまま いとも簡単に 潰えてしまった。
         それも想いを寄せし彼の人 の 女神の如き 満面笑顔 の ヒトコト で。







         「簡単に手に入るもの、に 興味はないの」







         撃 沈。

         天使の顔(かんばせ)で 悪魔の科白(ことば)。
         流石のジェットも これは、ちょっと───────堪えた らし い。



         “フーン ジャア僕ノ兄弟ガ増エルノカナ?”



         唐突に、頭の中に直接『響く』肉声(こえ)。そんな芸当が出来るのは思い付く 限り、只1人。

         ───────ラスボス イワン。





         ゼロゼロナンバーズをいぢめるコトを生きがいとする 一見赤児、の 大魔王。
         その大魔王は何時の間にやら 赤いつんつん頭の上に『腹ばい』の状態で乗り、覆い被さるように
         して もみじのよう な 小さな手で ジェットの瞳を 強引に閉じさせる。




         「イワン!?」
         “今ノ格好良カッタョ ふらんそわーず”
         「そう?」
         “思ワズ惚レ直シチャッタ”
         「あら 嬉しい」





         「テメェ ヒトの頭の上で和んでんじゃねぇっ!!」





         怒声が 夜のキッチンに一際大きく響き、ジェットは 自分の頭を占拠する 最恐の ソレ を
         剥がそう と 試みる、が────相手は如何せん 曲がりなりにも『最恐』の誉れ高きイワン、
         そう簡単に コト、が 進む訳など ある筈も なく。



         びしっ



         ───それは ほんの一瞬、の こと。

         ジェットの頭を 占領していたイワンの躯が 宙に舞った、かと 思うと次の瞬間には
         フローリングの床に 顔面から のめり込んでいた。




         「‥‥ったく、油断も隙もあったもんじゃない」




         唸る様、に 紡ぎ出される バリトン───────いわずもがな、第一世代最後の 一人。
         冴え冴えとした空気を 纏う 孤高の人間(ひと)。




         「ほら、さっさと行って来い」
         「‥‥! 何処から 聴いてたのっ‥‥!?」
         「最初から」
         顔色1つ 変えることなく、云い放つ青年 は その物云いの冷たさとは裏腹に 柔らかな光を
         その瞳(め)に湛え、フランソワーズの髪 を そっと 撫でる。




         「ま、振られない程度 に 頑張って来るんだな」




         その科白、に フランソワーズは 鮮やかな笑みで切り返す。





         「冗談!わたしが振られる訳、ない でしょ?」
         「‥‥大した自信 だな」
         「勿論 わたしを誰だと思ってるの かし ら?」


         「そいつは残念だ 折角付け入る隙が出来る と 思ったんだが」


         「‥‥嘘 そんなこと、考える隙間もくれない くせ、に」







         ひとしきり、軽口を叩いた後 視線を合わせて 2人は微笑う。
         今迄の会話から、は 想像も付かないよう な 柔らかな───────気配を漂わせて。







         「‥‥ま そういう訳だから 明日の朝食は各自で宜しくね」














         コロンの代わりにバニラエッセンス

         ワインの代わりにアールグレイ

         あなたに合わせた
         あなたが好む それらで 気を惹く なんて

         『恋とは相手を惚れさせるもの』が当たり前 の パリジェンヌ───────としては


         かなりの譲歩、なんだから



         ─────────今夜こそ 覚悟して、よ?














         「ジョー?まだ 起きて る?」


         小さく呟きつつ、フランソワーズはそっとジョーの部屋の扉をノックする。
         ややあって、栗色の髪の緋色の瞳の青年が顔を覗かせた。


         「うん ‥‥どうかした? フランソワーズ」
         「少し話がしたくて‥‥‥部屋に入れてくれない?」


         フランソワーズは小首を傾げ、上目遣いにジョーを見つめ────申し訳なさそう に
         手にしたティーポットとクッキーの載ったトレイを 差し出す。ジョーは、ふわり と
         嬉しそうに微笑むと ドアを大きく開け、フランソワーズを 自室へと誘(いざな)う。









         アールグレイの 独特の芳香が、部屋の中を密やかに 満たしてゆく。


         「‥‥で、話って何?」
         「‥‥ん〜‥‥あの、ね 」



         「 あ れ ?‥‥何だかいい匂いがする」



         ジョーの顔が、ほんの少しフランソワーズに 近付く。
         「クッキーの匂い、だけ ど‥‥ちょっと 違う 感じ」
         不思議そうに、瞳をぱちぱちと 瞬かせる様(さま)は 何処か 子供の仕草にも似て。




         「エッセンスよ バニラエッセンス」


         そう云うと、フランソワーズは 亜麻色の髪をかき上げ 艶かしい項を、惜しげもなく 晒す。
         「コロンの代わりに付けたの‥‥どう?」
         「ん〜‥‥普段の香りもいいけど この匂いもいいね 優しくて‥‥フランらしい気がする」


         「じゃ あ‥‥いつもの香りと コレ、どっちが好き?」

         「‥‥ぇ ? ぇ〜っ と‥‥」




         頬を赤く染め、ジョーは 照れたように俯いてしま う。その様子を 横目で見ながら、
         フランソワーズは 凄まじく、盛大な溜息を 1つ───────






         「どうして『日本人』って、そう なのかし ら?」






         深蒼色の瞳の奥が きらり と妖しい光を放ち、しなやかな腕がジョーに向かって伸ばされた
         かと 思う、と───────



         眩暈のような浮遊感を感じた直後、天地が逆となり 気が付くと─────ジョーの躯、は
         フランソワーズの 下 に、在った。


         ───────つまり

         フランソワーズに馬乗りにされた 状態 で。
         無言のまま、蒼い瞳がジョーを見下ろして くる。







         「ぁ え〜っと‥‥」

         「ね ぇ ‥‥わたしのこと、‥嫌い?」


         吐息混じり の、甘やかな声音がジョーの耳朶を擽(くすぐ)る。




         「!?そんなこと‥‥」
         「じゃぁ どうして何も云わない し 何もしない の?」
         「ぇ ぁっ あ のっ‥‥」


         フランソワーズがいとおしむようにジョーの栗色の髪を梳いてゆく。



         「いいなぁ 柔らかくて‥‥わたしなんて硬いから厭になっちゃう」

         「フラン ソワー ズ‥‥?」





         「ねぇ どうして?」





         ずずいっ と フランソワーズ は、ジョーに詰め寄る。
         至近距離に在った お互いの躯 は 更に密着 する───────幸か不幸か‥‥
         ‥‥ジョーの視線の延長上に フランソワーズの 所謂『胸の谷間』───────
         ジョーは 目のやり場がなく、顔を紅く染めて 視線をそらすしか なく て。




         「‥‥そうやって すぐ目を逸らすし」




               ─────────そんなの、直視出来る訳 ないってば




         「嫌いなら いっそ、はっきり云ってくれたほうが すっきりするのに」




               ─────────嫌いな訳、ない よ  寧ろ‥‥




         「そんなに魅力ない?‥‥何も しない し」




               ─────────イロイロ したいのは ヤマヤマなんだけどっ







         ジョーの葛藤など判る筈も なく。

         フランソワーズは 只々ジョーの髪を 梳き続ける。指はやがて、額へ と 移動し────
         輪郭 を なぞるように 緩やかに降りて ゆく。
         指の描く軌跡 を 辿るよう に 柔らかな口付けが 降り注がれる。




         額に

            瞼に

               頬に─────────




         アールグレイとバニラエッセンスの立ち込める、ティータイムの如き 芳香 に 包まれながら
         それとは違った 甘さを持つ空気、に ジョーは 思わず瞳を細めた─────────







         ぴくり

         一瞬、ジョーの躯が小さく跳ねる。




         「フッ‥‥ フラ ン‥‥?」




         フランソワーズの華奢な指、は ジョーの寝巻きのボタンに掛けられて いて──────




         「これだけやっても 背中に手も廻してくれないのね‥‥」




         微かな溜息 1つ 付き。




         「据え膳喰わぬは───って諺(ことわざ)がある位、なの に」
         「据えてないっ 据えてないっ」
         「あまりシャイなのも 考えモノ、なんだから」




               ─────────え〜っと‥‥










         「ま、いいわ」




         科白と共に与えられた 微笑 は、ジョーが愛してやまない モノ で。





         「ジョーが据えられれば 結果は同じ だし」




               ─────────は?


               ─────────え〜っと それ、って‥‥‥










         「ぇっ?えぇっ!? ぅ うわあぁっ ふっ ふらんそわーずぅぅぅっ!?」
















         かくしてジョーの運命や如何に!?

         待て、次号!












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キリ番11700hit 黒島 実和子様へ 勿論、次号なんてありません(断言)
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