瞳の中の聖女
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汗ばんだ手をシャツで大雑把に拭いて。 伸ばした先は目線よりも下のインターフォン。全力疾走してきたせいか、歩みを止めてもじわりと額に滲む汗。 肩で息を弾ませる。 ───緩みきった じんわりと己が内側から湧き上がるモノ、を抑えることが出来なくて。 最寄り駅から徒歩で約15分。 古い町並みの間を埋めるように 西日が差す角を曲がった先、の。 典型的な住宅街の中にあってひっそりと佇む…一種「異質」な空気を醸す、目的地。 目的、の、 「どうぞ 鍵は開いてるから」 インターフォン越しに聴こえる、甘い声。 慣れた手付きで開けるドア、遠慮無しに上がり込む邸内。 足許を照らす、掌に簡単に握り込めるサイズの、梟を模った薄茶色の 視界に拡がる─────… セピア色の風景 淡く───…逢魔ヶ刻の陽射し差し込む、リビング 2組のティーカップ 模様の無い、真っ白なだけのシンプルな其れは、以前訪れた際、好きだと告げた『品』。 自分の為に準備された、其れ等。 ───自分の為、だけ、に 週に2、3回『午後6時迄』と云う条件付きで、彼は彼女を訪ねてゆく。 ───何をするでも無く。 他愛の無い会話、と、紅茶の香り、子猫の気配。 只、其れだけの。 僅かな時間を作る事に、彼は全精力を注いでいる。 ───あなたの為、に 「ダージリンでよかった?」 彼の葛藤など知らず。 彼女は彼の背中に手を添え、「座って」と促す。 ティーサーバーから移されたばかりであろう液体がカップの中で小さくたゆとい、注いだミルクが波紋のように拡がってゆく。 華奢な体躯 波打つ、髪 閉じた、瞳 全て、が 魅了してやまない 彼女について知り得た 其れすら、会話の中から推測したに過ぎない代物、で。 瞳が不自由なこと でも家の中では不自由しないこと この広い家で独り暮らしをしていること 紅茶が好きで、気に入っているのはオレンジペコ 其れから─────… 知り合ったのは 天気予報の「降水確率10%」が見事に的中した、雨の日。 予測を無視した自分に与えられた罰は替えの無い制服を濡らしてしまったこと、と 「にゃー…」 今でこそ腕の中に大人しく治まっている、生き物の小さな お約束のように付けられた右頬の、うっすらとした、引っ掻き傷。 其れでも捨てられた上、寒さに震える 「…大丈夫?」 傘を差し掛けてきたのが、彼女。 持ち手の細い、深めのパールベージュの傘。口許を彩る淡い微笑。何処か浮き世離れした、けぶるような、存在感。 ───思わず、見惚れた 呆ける彼にアイロンのあたったハンカチを差し出し、拾った猫と共に連れて往かれた、現在は見慣れた、古い家。 広さ故か、寒々とした印象を与える場処、も『彼女』が在るだけで、別空間のように暖かで華やかな空気に覆われる… ──…ような気がするのは彼の欲目か。 差し出された大判のバスタオルから 眠りへと 春の沈丁花 夏の梔子 秋の金木犀 甘い芳香の、『冬』以外の季節が、家の中に満ちていた。 「花、好きなんですか?」 「ぇ?」 トレイを持つ、彼女の横顔に話し掛ける。 「タオル、とか…部屋、とか」 伏せた睫毛の隙間から覗くのは、何も映す事無き、灰褐色。 彼は彼女の瞳が視えない事に、その時、初めて気付いた。 「好き、と云うより…目印、かしら」 「目印?」 「香りが、其処が何処かを教えてくれる」 「…………………………」 「慣れないと、辛いかもね……香り其のものが駄目、って 「……………」 「季節感は無くなるけれど……、ぁ 紅茶でよかった?」 「ぁ、はい…」 大判のタオルを畳むと、彼はリビングを陣取るソファ、の ティーカップの置かれた傍へ所在無げに腰を下ろす。 「みゅ〜ッ」 スプリングが軋む震動に、全ての発端となった黒い子猫は、不満気に鼻を鳴らした。 上目遣いに見つめる、まるい、黒曜石の瞳は中心だけが金色を帯びていて───… 「あ、悪ぃ」 彼は苦笑を浮かべ、小さな生き物の頭を撫でてやる。 濡れそぼっていた躯も今はすっかりと渇き、滑らかで触り心地の良い綿毛となっている。 にゃぁ、と、じゃれるように前足で宙を掻く姿が観る者の 「おいで」 鳥肌が立つ程に細く、白い、腕。膝の上で丸くなった猫を撫で上げる、繊細な指。 些細な所作、にすら、こんなにも心奪われて。 この場を離れ難く、て───… 先程まで見惚れていた白い腕が、彼に向かって伸ばされる。 未だ乾ききらぬ髪に触れたかと思うと、輪郭を辿り、静かに下降してゆく。 何時の間にか雨は止み、赤みを増した夕方の陽射しが部屋の中へ降り注ぎ、全てを紅く己が色に染め上げる。 彼の頬が染まったかに見えた、のは───…決して陽射しの所為だけではないだろう。 「この 3日と空けず、其れらしき『 初めは『傘の御礼』 次は『猫を貰ってくれた御礼』 猫じゃらしを持っていってみたり、母親が作った焼き菓子を持っていってみたり… ───いい加減に『 「う〜…」 膨れた学生鞄を小脇に抱え、頭を悩ませていると、気が付けば何時の間にか彼女の家の前に立っていた。 普段訪れる其れ、よりも遅い時間。既に陽は傾き、星達は競うように、夜空を飾ることに熱心で。 ───時間さえ護ってくれれば 理由なんて無くても 何時でも自由に来ていいから 彼の その科白に甘え、足繁く通うに至った、昨今。 人通りの絶えた住宅街。 足許から頼りなげに伸びた影が、ひたひたと付き纏う。 滲むよう、な、薄いベールを被った三日月が ちりりん 澄んだ鈴の音を従え、小さな躯が駆け寄って来る。 ───あの雨の中。 震えていた生物は、みるみるうちに子猫らしい丸みと愛らしさを帯び、痩せこけた姿の見る影もなくなった頃。 『言い訳』に持参した、小さな銀色の鈴を付けた、細い皮製の首輪。 付けられる 互いの口から漏れる、くすくす笑い。 顔を見合わせて───…又、笑う。 子猫は『ベル』と名付けられた。 |
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