逢魔ヶ刻 |
新年を間近に控えた街は行き交う人すら慌しい。 休日しか訪れる事のない平日の地下街は、閑散と表現出来る程、人通りも少なく、行き交う年齢層も違う。 昼間、何の予定も無く、歩く街並みは、己が見慣れた其れとは全く別の様相を呈し、ふと、迷路にでも 迷い込んだような、心もとなさをそっと肩に下ろしてゆく。 かつり、かつり、と、高くも無く、低くも無い、ヒールの音が緩やかに地下街に響き 時折吹き込む風は冷たく、首を竦めたくなる程だったが、無駄に歩いた躯は程良く温まっており、 掠める北風すら心地良かった。 きっちり締めたコートのボタンを2つ外し、マフラーと首筋に隙間を作ると、わたしは小さく溜息を吐いた。 午前中から出てきて数時間。全く、と云って良い程に増えていない手荷物。購入したのは文庫本1冊。 軽くも無く重くも無く、通勤時に気軽に読めるようにと選んだもの。 丁度、店が途切れた地上へと上がる階段と広告ディスプレイ立ち並ぶ壁面、新設デパートの地下食品売り場へと 続く、細く薄暗い路地の境目で、散々首筋から熱を掠め取っていた寒風が不意に止んだ。 「振り向かないで訊いて下さい」 寒風の代わりに吹き込んできた声は、美声としか表現しようのない、深い───…バリトン。 染み渡るような、其れに思わず歩みを止めた。 「ある人と逢っては頂けませんか」 気付かれぬよう、そっと首を 柔らかな生地のモスグリーンのダブルスーツの一番上の シャープな印象の横顔。 彼は若者に人気の有る駅名とその駅前に有る老舗デパート名を挙げ、逢って欲しいのは、其処に出店している 宝石店の社長だと云う。今年49歳、 彼が云う処の『ある人』は彼の雇い主に当たり、自分は其の秘書をしていると云う。 勿論時間を拘束する訳だから、其れなりに御礼は致します、1回2時間月2回で50万では如何でしょうか、と 顔色1つ変えず、端的に要点だけを述べた。 わたしは憤るでも無く、笑うでも無く、言葉を濁して俯いた。 老舗の名に感銘を覚えた訳でも無く、駅名と店名が結び付く事実さえ覚束なく、ましてや実存する店か否かなど、知り得よう筈も無かった。 援助交際 愛人契約 ワイドショーを賑わせる、しかし自分には無縁な言葉が頭を過ぎる。 其れ程、金銭に困っているように見えたのか、割り切れる どちらにせよ不愉快である事実に変わり無く、目前の悪趣味な男を睨み付けてやろう、と勢いよく顔を上げた。 立っていたのは 目の醒めるようなイイ男でもなく ごく普通の────…平均より少し高いであろう身長の、柔和な表情、の、男性。
あの 警戒心は決して薄くは無いのに 立ち上る香ばしい匂いを挟んで、私は二人の男と向かい合っていた。 齢50と聞いていた、彼の雇い主は実年齢より老成した感の有る人物だった。彼よりも少し背が低く、 「はじめまして」 差し出された、白いシンプルな名刺に印刷されていた肩書きは予め聞かされていたのと同じもの。 私は軽く会釈をして受け取ると一瞥し、目の前のテーブルにそっと置いた。 お待たせ致しました、と声と共に開かれた障子、陶器の器に注がれた、 「この店の名物なんですよ」 男の 色になるのだそうだ。なるほど、色が無いうちは、あの独特の香りすら薄めたよう、な────… 都会のど真ん中にありながら、切り離されたように非日常的な たゆとう琥珀色鮮やかに染まりゆく液体は、何故か遠い記憶の片隅の風景を想い出させた。 自転車の 伸びゆく影 佇む黄昏月 隣を歩く人、の 横 顔 鼓 動 薫 り 微 笑 あわけない、想い 結局、初めて逢った其の日は30分程話しをしただけだった。 予定が詰まっているらしく、謝りつつも慌しく去ってゆく彼等の後姿を感慨も無く見送った後、わたしは カップに残っていた珈琲を飲み干し、ゆっくりと席を立つ。 椅子に置いたバッグを取ろうと振り返った視界に入った紙片───…名刺をぼんやりと眺めた。 空白が目立つ其の『空白部分』が、まるで自分自身のようだと、柄にも無く思った。 |
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